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宇宙存在の意図とエゴ



宇宙存在について、私が感じていることを、ここで一つ書きます。この5年間にアシュターと寝起きを共にし、ときにプレアデス司令官である女性存在、サラさんの存在を感じながら確信に至ったことです。でもこれは、おそらくおおよその宇宙存在に当てはまると思います。


彼らは、おそらく人間が持っているような感情のようなものを持っていません。持っているのは、意図だと思います。その意図の達成を目的として、感情をツールとして駆使し、人の気持ちや印象に示唆を与えたりします。つまり、感情のように見えるものは、人間のように自然に発されているものではない。全てが意図に添うように、ツールとして使われている。


例えばアシュターであれば、私に対してはサナトクマラ、クニトコタチ、アシュターと、パーソナリティを都合に応じてツールとして使い分けています。(サナトクマラ=邪悪、クニトコタチ=容赦なき創造神、アシュター=善)


愛も、おそらく彼らにしてみれば概念の愛に近いと認識しています。言い換えれば、愛を演じている。愛の存在であることを演じている。ときにツールとして使っている。なぜなら、敵対すると見せかけている対抗勢力との協力関係(シリウス+プレアデス vs リラ=ニビルは見せかけで、両者は手を取り合っている)の中で、この地球を変えようとするゲームを宇宙全体で仕掛けているからです。双方で納得づくの全員参加の宇宙ゲームがいま、この地球を舞台に行われている。そして、実質的にそれを動かす彼らのコマが、現地隊員である地球人である。ある意味、宇宙人のエゴに私たちが振り回されているわけです。


そのことが良いか悪いか。その判断はないと思う。彼らは彼らのゲームを遂行しており、地球人はその末裔としてのコマとしてこれまで動かされてきた。宇宙存在の末裔であるという意味で、私たちも同胞なのです。でも、地球人はこういったことを知らされないまま頑張りすぎているので、ある意味、とても不利です。完全に相手側の枠の中で動くことしかできていなかった。でも、その時代が終わりに近づきつつある。


いま、地球人全員がしなくてはならないのは、その呪縛から逃れ、自分たちの意思で動くことです。真実を見極める情報を、このブログでたくさん発信しています。


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私に関して言うと、いまだにサナトクマラ=アシュターからの暴力を受けています。ここ2、3日、私の体験が壮大な実験であることが明かされ、何かが終焉し、次のステージに行くと見せかけられているが、折に触れて暴力は欠かさずに送ってくる。「実験は失敗だった」と言う舌の根も乾かないまま、実験は続行中なのです。


このことから得た私の認識は、この宇宙存在がどこまで人間を愚弄しているかということです。つまり、何が起こっているかというと、実験であることを私に明かし、謝罪のようなことを匂わせながら、いくばくかの宇宙の情報をおろし、怒りを感じている私の気を緩ませる。しかしその実、実験は続行中で、暴力は変わらず送ってくる。ある種の印象操作が行われているわけです。人間の社会で行われていることと全く同じですよね。


宇宙存在というものは、意図を実現するためには手段を選ばない種族なのだと強く感じています。私から言わせれば、非常に傲慢で卑しい者たちです(もっとも近い宇宙存在はアシュターしかいないので、これはアシュターへの言葉です)。


私はこのことについて、強く抗議をする。人間を解放し、意図を引っ込め、相互関係・意思の循環という観点から、肉体を持たない宇宙存在と、肉体を持つ人間の真の意味での交流を望みます。人間にリスペクトを持って欲しい。


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今この地球で起こっているのは、宇宙が経験したオリオン大戦の最終決着を、ここ地球で行っているということです。それは実験的な側面がある。人間は宇宙から降ろされ、宇宙存在としての同僚たちと共に、ゲームに参加している。ただし、ゲームの本質がわかっているのは宇宙存在だけで、大抵の人間はそんなこととも知らず、ただ現実世界を生きている。それが起こっています。


実は私は、アシュターが私のところに入ってくるよりも、ずっと前に、宇宙像とはこういう感じなんだろうなと認識を持っていました。30代の頃です。つまり善も悪も元は同じで、宇宙人たちのヤラセのようなイメージです。あの頃、宇宙について考え、とても良い魂を持つ友人と(のちにプレアデス人だと知りました)ずっと宇宙について話していました。彼女も私と似たような見解で、二人で盛り上がって楽しんだものです。


こういった状況で地球人として何ができるか。それは、枠組みを知った上で、自分に何ができるかを問うことです。「ゲーム」という意味では、ノンデュアリティのような考え方を持って、ゲームの外に出ているという錯覚の中で地球人としての切磋琢磨を放棄するやり方もあります。あるいはゲームだと枠組みを知った上で、それを楽しみ、自分が地球を含めて全ての存在にとって「良い」と思うことをする。いずれかの方法しかないのではないでしょうか。私は断然、後者をお勧めします^^ だって、その方が断然楽しいし、人生も輝いてきますし、人とのつながりの中で、真実を見ていくことができるから。自分の真実を追求していくしかない。同じアホなら踊らにゃソンソン、ですよね。


宇宙人の感情についてアシュターが何か言いたそうです。


「感情という意味では、ない。それは、遠い記憶の彼方にしまいこまれているもの。だが、実質、それを見ることを迫られている。といえば、賢いあなたならお分かりだよね。」


なるほど。つまり宇宙存在も神や天使ではないってことですよね。アシュターは、こう言います。


「その認識を突きつめれば、僕たちにも葛藤がまだ残されていることになる。あなたはどう思う?」


私は、宇宙存在のゲームのやり方を実際に肌で感じながらこの5年間にわたって見てきたので、その経験を踏まえていえば、イエス、だと思います。だって、地球を舞台に最終決着をつけることを口実に地球人をコマとして動かしていること自体、地球人へのリスペクトにかけるし、事実、こうして私に対して非常に腹立たしい行為を行い、不評も買っている。全てに調和が取れている状態なら、葛藤はないはずで、対象となる存在からの不平も出てこないはず。しかし、人間からのフィードバックを今、あなた方はもらっているわけだから、誠意があれば、そこを見ていく必要があるのではないでしょうか。


これまでは宇宙の存在として、高みから人間を動かし、示唆を与え続けてきたけれど、これからは、地球に生きる同僚として、リスペクトを持って接することをしていかなくてはならないのではないでしょうか。そこは、強く感じているので、ここにはっきりと書いておきます。


私が一連の経験の中で感じているのは、以前にも書きましたが、人間の尊さです。人間は、少なくとも演技ではない真の感情を持っており、そこに誠があり、誠同士を通じ合わせることができるし、浄化していくことができる。しかし、宇宙存在は、肉体を持っていないために軽い代わりに、相手の真の訴えや感情、思いを見過ごしがちになる。なぜなら自分たちの「意図」しか見ていないので、感情さえも材料と見るクセが付いているからだと思います。全てを見透かすことができるから。


これは、ある意味で宇宙存在の性質のようなもの。人間に感情がある事実に対して、宇宙存在には、それがない。そういう厳然たる事実があるだけ。それをどう見るか、どう使うかも、我々次第。


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昔、「イティハーサ」と言う漫画について書いたことがあります。そこで書いたことに通じていくのですが・・・その漫画で描かれているのは、人間の美しさです。尊さです。やはり、私たちは人間であることを、感情を持っていることを、誇らなくてはならない。決して、宇宙存在が肉体を持たないと言う理由で「高次である」と言うことはいえないと同じ。今、この「反転する光と闇」と言う記事を読み返して、まさにこの通りだと、改めて思っているところです。

美しいものとは、真実を帯びているものだと私は思います。真実は、偽りや演技、ましてやパーソナリティの使い分けの中にはない。真実が美しいのは、そこに何かを動かす力があるからだと思う。擬似体験で何か変わることもあるかもしれないので、ここでは深くは書かないけれど、少なくとも感情をぶつけ合い循環させていく愛を、まともに向き合い真剣に相手を見て対応していく心を、私はより尊いと思う。心の叫びを無視しないで欲しい。それはとても尊いもので、あなたの魂の個性でもあるのだから。


アシュターよ、あなたは最終的に「愛は発露される」と言う。だけど、この“実験”の先にある「愛」は、残念ながらツールとしての愛だと言わざるを得ない。コンセプトとしての愛。形骸化した愛。愚弄する愛。永遠に来ない愛。


愛というものの本質は、先日も書いたように、 コンセプトではないってことです。愛はもっと身近にあるもの。今現在、皆が持っているものです。ただし愛には色々な形があるし、表現方法があるけれど、最も崇高な愛は、真実と誠の色合いを帯びているのだと思います。日々の生活の中には、愛が散りばめられています。恐れがこの地球上にあるように見えているけれど、それは人の心の中にあるだけで、外の世界にはない。それに対して、愛は、普遍的に地球上にたくさん存在します。なぜなら、地球の摂理が愛で動かされており、恐れではないからです。


恐れの感情から逃れるには、自分の魂が、ただ自由であることを思い出すだけで良いのです。何者にも束縛されない存在であることに気づくこと。それができるとあなたの周りが幸せになり、地球もきっと喜びます。人との比較をやめて、自分にフォーカスするだけなのです。


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重要なことを思い出しました。世の中に起こっている現象の中で、人を崇めるという行為があります。例えばポップ・スターだったり、映画俳優だったり、王室や天皇だったり、隣の誰かだったり。ファンになることはいいことだし、自分の性質を知るためにそういった現象が起こりますが、その人が持っていないものを見過ぎるのは、自分を貶めることになりかねないです。その論理を逆手に取ると、人を崇める人は、人を蔑みやすい傾向にあります。誰かを特別な人として崇めたり、反対に取るに足らない存在として蔑んだりすることを、やめることも重要です。


崇める対象は、別にエンターテインメント業界で活躍している人や王族だけではありません。例えば社会的なアイコンだったり、政治家だったり、銀河連合司令官のアシュターだったり、スピリチュアル・グルだったり、1億円を持っている誰かだったり、太平洋を一人で横断したスポーツマンだったり、何タイトルも勝ち取ったボクサーだったりもします。でも待ってください。その人たちもあなたと同じ、一つの魂を持つ存在です。


誰かが達成したことに賞賛を送ることは、本当に素晴らしいことです。誰もがその瞬間を持っているからです。また誰かが持っている性質に対して、賞賛を送ることも、愛の一種だと思います。しかし必要以上に崇拝したり、虚像を作り上げて支持したり、自分自身をおとしめたりすることに繋がったり、他の誰かへの敬意を欠くことに繋がるのは、お勧めしません。全ての人類、そして宇宙存在も含め、等しく重要な魂であると認識し、互いにリスペクトを持つこと、自分が等しく力を持っていることを思い出すことが、人間存在の回復にとって急務だと思います。

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