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自分自身に誠実であれ



アガサ・クリスティのドラマ版「名探偵ポワロ」が、とても示唆的だった。(以下ネタバレあり)


事実を追い、人の心理を読み、物証などから整合性を追求することで真実に至る探偵のポワロは科学を重んじる名誉ある一市民だが、ドラマ版「オリエント急行の殺人」ではなぜか信仰に身を委ねている。


冒頭には、ポワロが激しい口調で犯人を追い詰めた結果、若い犯人を自殺に追いやり、そのことを非難される場面が挿入されている。本編では列車内で起きた事件を最終的に報復殺人と見抜くが、主犯から「それは自分にとって正しい行いだったのだ」と真実から立ち昇る確信を見せられ、深く葛藤する。そして最終的に警察に真相を明かさない選択をする。


ポワロはその後、十字架を握りしめ苦悶の表情を見せつつ、犯人たちから遠ざかっていくところで幕が下りる。その表情を視聴者は様々に読み解くのだろうが、私には彼が施行してきた「神の目」が、果たして本当に神のそれだったのか、自分自身へ問うているのではないかと思えてならなかった。過去に扱った全てのケースにおいて、自分は本当に神の代理人でありえたのか。


ポワロが犯人を警察に引き渡さなかったのは、法に与しない強い真実が、犯人側にあると認めざるを得なかったからだ。法という名の神そのものが、実は幻想だとポワロが悟った瞬間だったのかもしれない。彼が信仰心を強めていたのは、自分の“判決”が、神とともにあって欲しいと祈っていたからではないだろうか。


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誰にとって、何が正しいのか。そこに客観的な答えはない。100人いれば100通りの観点があり、受け手の数だけ答えがある。


法はもとより人が定めたことであり、人を助けると同時に、縛るためのものだ。この近代世界にあってさえ、殺人が法で認められている国だってある。法はツールでしかなく、定めた者に有利に働く方便でもある。そのような世の中にあって最も強く輝くことができるのは「自分自身に誠実である」ことができる者だけだろう。


決して無秩序であることを推奨しているわけではない。「自分自身に誠実である」とは、日常レベルで発揮してほしいことだ。


自分の感情を見逃さず、その意味を知り、自分の真実に至ることができたならば、その真実に沿った行いができるようになるだろう。すると周囲にその真実が及び、そのまた先で真実の連鎖が起こる。偽りの自分、そして偽りの関係性の中にいては、人間としての輝きを一生発揮することができない。


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私自身、宇宙存在アシュター+サナトクマラとの確執の中でやり遂げようとしていることが、まさに「自分の感情に誠実でいること、自分の思いに素直でいること、そして真実とともにあること」という、実にシンプルなことなのだと、実感している今日この頃でもある。


昨年夏以降、こちらの記事を書いて以来、事態は遅々として進んでおらず、業を煮やしている。この中でアシュターははっきりと「気づきは相互で起こった」と言っているのだが、私の方はとうに手放しは完了し、自分自身の真実を生きることだけに専念している状況であるにもかかわらず、アシュター+サナトクマラの体たらくはどうだ。自分を省みることなく、いまだに現世における肉体生活を堪能しているとでも言いたげだ。


私の中に来ているアシュター+サナトクマラがすべきことは「自分を内観する」ことだ。 その先にあるのは、宇宙存在が人間存在へ仕掛けてきた数々の傲慢で愚かな行いを真正面から見据えること。そして反省。悔い改めること。


今の世の中、スピリチュアル業界では宇宙存在やそのメッセージが随分ともてはやされているようだが、私自身はこの5年で人間存在がいかに崇高で素晴らしいかを再確認させられているような状況だ。自分を信じることからしか、人生の全うはあり得ない。自分の外に基準を打ち立てることを、人はやめなくてはならない。人に必要なのは神や神に似せられたもの、そしてもちろん法などではなく、自分に誠実であろうとする心の強さなのだ。


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「人を変えようとするのではなく、自分が変わる」というのは未来永劫変わらない宇宙の法則であり、宇宙存在も例外ではない。人が人であることを信じ、互いに切磋琢磨し、周りにいる人を大切にし、その関係性の中から前へ進んでいく。人生の醍醐味はそこにある。目に見えないものに価値を見出すのもいいが、人は目に見えるものの大切さに、もっと目を見開くべきだ。人にすがる前に、自らの中を観る。肉体を持ってそこにいる人を大切にする。「幸せ」だと自分が感じるに至る方法は様々だが、自分が現在抱えている感情や葛藤を無視して前に進むことはできない。


自分自身に誠実であれ

Be true to yourself


これは私が、この5年半の修行の中でつかんだ、至高の発見である。


誰にも何も言われない、自分自身の真実を追求すること、自分に誠実であることこそが、私たち人間にできる唯一の作法だ。それができたとき、人は大きな気づきと真実の輝き、心の平安を得ることができる。


しかしながら悟りにいたることは必ずしも人生のゴールではない。悟り=覚醒?を至高の目的に設定することで、転落することもありうる。うわべだけの不思議体験をすることが決して人生のゴールではないし、ちょっとした不思議体験に導いてくれる人がえらいわけでもなく、その人たちを崇める必要もない(もちろんエンターテインメントとしての不思議体験はありうるし、“悟り”によって人生が好転すればそれに越したことはない)。


ようは与えられた環境の中で、自分自身を大切に生きる。その積み重ねの中に、人生の展開があり、輝きがある。それしかない。


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