概念としての「愛」ではない



私のツインレイのパラレルセルフとの間でまだ続く(うんざりしている)闘いの中で、改めて感じたことがあります。これまでも何度か書いたかもしれないのですが、繰り返し書きたいことをここに書きますね。


この存在は恐れを匂わせるのが大得意なんですが、その手段の一つに、馬の鼻先に吊るされているような「ニンジン」をよく使います。曰く「君はこんな将来が楽しみじゃないのか」「こんな富を手にするのだぞ」とか、「Jとの生活はこうなる。しかし今の君では・・・」のような感じです。


そして最もいけ好かないのは、「俺自身はまだサナトクマラとして存在し、愛を発露していないのだ。僕がアシュターとしての愛を発露できるかどうかは、君次第なのに、どうしてまだサナトクマラをダメだと言い続けることしかせず、(その暴力的な側面も含め)受け入れようとしないのだ?」という感じになることです。私はこんな馬鹿げた物言いは相手にしませんし、とっくの昔に恐れの授業は卒業しているのでいいのですが、あまりにしつこいとこれがシステムの中で表現されている演技なのか、本当に私のパラレルがこんなにアホなのか区別がつかなくなるのが辛いところです。


このサナトクマラが言う「愛」とは、一つのコンセプトですよね。あるいは条件付きの愛。あるいはこのケースの場合、ツインレイ ・レースでがむしゃらに走っている誰かの鼻先に吊り下げられたニンジンです。私はサナトクマラがこの話を持ち出すたびに、「なに、またそのニンジンのこと?」とよく鼻でせせら笑って切り返しています。(もちろんツイン・レースで鼻先に吊り下げられているのがニンジンではないのはご存知の通り^^)


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愛について考えるとき、それは、私にとってはごく日常に溢れているものです。だれかの優しさであることはもちろん、具体的な所作の中や、オンラインでのやりとりの中にある気遣いやリスペクト、交流、全てです。地球上の全てのこの瞬間に、愛は溢れています。それは決して、雲を掴むような壮大な話ではなくて、あなた自身がごく日常的に発信し、また感じ取るものです。


愛は、遠くにあるものではありません。ましてや実態のない概念やコンセプトでもありません。人々が「愛」について話すとき、そこに愛があるとは言い切れません。愛とは、実体の中にこそ宿るものです。例えば学者たちが「愛」について論争するとき、そこに愛があるわけではないのと同じです。愛という概念を考察しているだけで、そこに実質的な愛が存在しているわけではないからです。


つまり、愛は空論ではありえない。愛とは、実体を伴うもの。だからこそ、私たち人間が毎日の生活の中で、実践し、感じ取ることができるものなんです。植物に水をやったり、動物の頭を撫でたり、ご近所の人とあいさつを交わしたり、遠くに住む友人に「元気?」とEメールを打つことだったり、同僚やクライアントさんに「今日はどう?お疲れ様」と声をかけることだったり、そんな何気ないことが、全て愛です。時には過ちを犯そうとしている家族や親友に「それは違う」と強く意見することが、愛です。


愛は、もっと別の形をとるかもしれません。囚人の一人に「お前も良くやってるな」と声をかけること、うるさいお客さんに対して、ただ笑顔で対応することであるかもしれません。愛は発せられると、それを受け取った人が愛を感じるでしょう。それが人類の最も崇高なエネルギーのやりとりです。愛とは、気遣うことであり、優しさや真実を分かち合うことであり、その先に家族愛があり、恋愛があり、人類愛があります。(疲れたとき、自然に触れたいと思うのも、愛の一種なのかもしれません。愛は、地球を覆っているエネルギーの総体だから)


自分を大切にするのはもちろんのこと、身近にいる人を大切にすることを、一人一人が実践すると、地球全体として見たときに、くまなく愛で覆われていることになります。皆さんも、イメージできますよね?


天使の愛が、愛の専売特許ではない。愛は決して、壮大なものでもなく、ましてや概念として限定されるものではないのです。マザーテレサの愛をメディアで見聞きしたからと言って、それを真似たりすることはお勧めしません(もっとも強いインスピレーションを受けたのなら、あなた自身との関わりが何かあるのかもしれませんが)。誰か別の人が実践している愛に、惑わされないで。愛を遠いものにしないで。


愛のあり方とは、あなた自身、そしてあなた自身の最も身近にいる人に愛を伝える続けること。だから、とても簡単なことなのです。私たち全員に、愛する力と、愛を受け取る力が備わっている。


皆さんも、どうぞご自身の愛を、実践してくださいね^^

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