反転する光と闇


水樹和佳子さんの漫画『イティハーサ』を読まれたことがあるでしょうか。私はそこに描かれた宇宙観に激しく共鳴し、物語に何らかの真実性を感じとっています。

目に見えぬ神々、目に見える神々、人間。その者たちが繰り広げる壮大な物語です。目に見える神々は、光と闇の戦いを繰り広げている。人はその神々に仕え、戦いに力を添えている。最後は闇と思われる存在が勝利したかに見えますが、闇と見えた存在が、同時に光の存在であることがわかります。つまり、闇と光の両方を併せ持つ者が、生かされるのです。

昔から「光と闇」は文学やファンタジーが好む古典的な題材であり、両者は背中合わせのもの。光がなければ影はわからず、影がなければ光も色も見えない。そもそも分けて考えること自体、無意味なのかもしれない。

エウリーナとセレステ王の物語の中で、レムリアが沈んだ理由をセレステ王が総括してこう言います。

「光に色を添える・・・闇が、色を添える・・・闇があって、色がある・・・・闇がなければ、見えない・・・そこを見たかった。闇を見たい人が出てきた。それが沈んだ原因だ。闇を見る心が増えた。そして沈んだ。それが原因だ。」

光ばかりの世界では、生きることの陰影を感じられないがゆえに、人々の総意として闇を呼び込んだ、ということでしょうか。つまり光と同じように闇が必要であったと。『イティハーサ』では、その闇についても、よく掬い取られています。

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前回の投稿で自分の価値を認めることの大切さについて書きました。自分軸を育てないでいると、他人の価値観に振り回されることになり、結局自分で何も考えない羊のような民ばかりができあがることになってしまいます。それはまさに、『イティハーサ』で描かれている普善神・天音のような存在に依存する民にほかなりません。

良き神として描かれている天音は、自分の光・庇護下においてのみ、人々が幸せになれると説きますが、それは違いますよね。人は自らの足で立つことができるのです。

このことは、現代の私たちについても当てはまります。願い事があると神社や教会に行って神様にお祈りをしますが、祈るという行為はゆきすぎると自らの力を弱めることになります。平和などを祈るのは悪いことではないですが、神頼みをしなくても人は自分の内側にある光にフォーカスすることで望み通りの人生を歩むことができます。自分の本質に繋がっていくことの方が、神社に行くよりも大切だということです。(ただし波動の高い場所に行くと繋がりやすくなるということはあります)

元来、一人ひとりの人間が、パワフルな力を持っています。自分の価値を認め、本質に目覚めていけばいくほど、力が増していきます。内側の光を感じられるようになると、宇宙を味方につけることができるので神に頼まずとも物事がスムーズに進むようになるでしょう。まぁ、そもそも神々という概念が、ちょっと違うのかもしれませんが・・・。

おそらく最も真実に近いのは、各地で神々と呼ばれている存在は、地球外から来た存在である可能性が高いことです。つまり、それぞれの星のルーツに依拠した利害関係を持つ存在だということです。必ずしもニュートラルではない。

必死で拝むことによりエネルギーの交換として何らかのご利益のようなものがあるかもしれませんが、いつも自分が心地よくいるためには、やはり神頼みではなく自分頼みがいちばんなんですよね。自分軸をしっかりとしていくことで自分の価値を認め、同時に人の価値も尊重できるようになる。そこがキーだと思います。傲慢になることを推奨しているわけではありません。

宗教では神を崇め依存することで人は無力化しますが、この構造をそろそろひっくり返す時が来ているのだと思います。神を拝むことによって得られる平安ではなく、自分の魂へ還る真正な道を、一歩踏み出すのです。

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『イティハーサ』では、最終的に地球の運命のカギを握っていたのは、神々ではなく人間でした。人間の純粋な思いや陰影のある行動は、その“反”調和性ゆえに尊いものとして描かれています。つまり・・・人間の本質とは、予定調和の波を排除する“思い”や“感情”にあるということなんですよね。作品ではその爆発的な力が神々を退け、人間としての進化に大きく寄与することになります。

この点に、私は激しく共鳴します。人の意思が尊重されるということですから。

運命というものがあるかどうか。意見の分かれるところだと思うのですが、もはやどの局面においても自分の意思を追求していくしかないと思います。スピリチャルな世界では「必要なことしか起こっていない」とよく言われますが、今現在の自分のエネルギーを反映したことしか起こっていない、という意味だと思います。

だからこそ起こっていることを見極め、そこから学んでいく姿勢が重要で・・・進化し続けることが、人間の本質なんですよね。起こっていることを運命だとして諦めるか、嫌だと思ってとことん排斥し、別の可能性を追い求めるか。まさしくローリング・ストーン。私たちは自らの可能性へ向かって転がり続けるしかない。

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『イティハーサ』で不思議なのは、夜彲王(やちおう)と呼ばれる存在です。

夜彲王は「目に見えぬ神々」から遣わされている霊的な存在で、「目に見える」良き神も悪しき神も等しくチリと化していきます。彼は感情を持たないまま、ニュートラルな状態で光と闇の均衡を取ろうとしていたのです。

最終的に、陰陽を魂に刻みつけた人間の娘、透祜と融合することによって、地球を見守る存在になります。透祜は夜彲王と同化することにより、無に帰するのではなく、人類として進化の道を選択したことを意味します。

透祜には鷹野という対の男性がおり、永劫の未来において(1万年後?)鷹野と再会することを願っている・・・というふうに読めるのですが、夜彲王と合わさることにより、彼女自身の魂がグレードアップされ、その状態で輪廻に戻るのかな?と個人的には思ったのですが、どうなんでしょうね。この辺りの描写が非常に曖昧で幅を持たせているので、受け取り方は読者次第、と見ていいのではないかと思っています。

でも、たったひとつ確実に言えるのは、この瞬間、目に見える神々(宇宙存在)も、人類も、この先の地球がどうなるか、誰も明確な答えを持っていないということ。そしてそれは、目に見えぬ神も同じこと・・・

今この瞬間、私たちは全員で地球の未来を選び取っている。


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