倭姫の物語:卑弥呼と呼ばれた女
謎に満ちた古代日本史・・・。その一つに邪馬台国の場所がどこにあったか、というものがあります。私がつながってみたところによると、畿内三輪山周辺、纏向遺跡だそうです。邪馬台国とは中国の歴史書に載っている記載で、大和朝廷のことみたいですね。
ちなみにアシュタールによると『魏志倭人伝』のような昔の歴史書に書かれていることは、3割本当で7割は作りごとだそうですので、正史というのはそのようにご覧くださいませ、とのことです。
さて、大和朝廷の「卑弥呼」は、歴史上、倭迹迹日百襲姫<やまと ととひ ももそひめ>と呼ばれている人物と同一人物です。通称としては倭姫でよいようです。奈良県桜井市にある箸墓古墳に葬られているお姫様ですね。
倭姫は巫女として大変優秀だったので、彼女を斎宮の頂点として大和朝廷が運営されていた、ということで、決して倭姫がまつりごとを司っていたわけではありません。当時、戦乱の世の中だったようですが、彼女が人心を平定し、戦乱を終息させたというのは本当のようです。
またとても美しい女性であり、ファッション・センスも抜群だったのだとか。「百襲」の「襲」は着物の襲<かさね>という意味で、襲衣のセンスがよかったのでしょう。斎王として神託を下ろすと同時に、巫女(ミディアム)として人々の悩みを聞き、解決する手伝いもしていたようです。
しかし、彼女自身は巫女としての人生を好んではいなかったようですね。巫女である限り、表向きはずっと処女でいなくてはならず、好きな男性と結ばれることもままなりませんでした。
でも・・・倭姫はこう言います。
「私とあの人は、抗いがたい気持ちで引き寄せられ、やはり結ばれたのです。そして私は男の双子を生みました。しかし、それは表沙汰にはできない子どもたちで、すぐに里子に出され、老夫婦の手で育てられたのです。その子たちは若竹の御子と呼ばれました。それが『かぐや姫』の原型です。」
かぐや姫の原型・・・男の子を、わざと女の子に変えて伝承としたのでしょう。
・・・・・・・
子どもたちは成長する過程で、さまざまな横槍が入り、狙われ、いじめられるような幼少期を過ごしましたが、立派に成長し、あるやんごとなき方の元に戻りました。実の父親である、当時の天皇です。倭姫が恋をした男性というのは・・・孝霊天皇でした。孝霊天皇は正史によると倭姫の父となっている人です。
孝霊天皇は「竹の所領」とも呼ばれた、竹林に囲まれた屋敷に住んでいたとのことです。だから彼の息子たちが若竹の御子(皇子)と呼ばれることになったのですね。先日、紫式部の恋の相手が実の息子であり、光源氏のモデルだと書きましたが、ここでもやはり近親の恋があります。父である孝霊天皇と倭姫は惹かれ合う仲となり、一線を超えて双子が生まれました。
子どもを出産した後、倭姫は祭祀を執り行うことができなくなり、天皇家にも居場所がなくなり、中国への亡命を考えるほどの窮地に立たされました。母親(継母)の逆鱗に触れたのです。妻から責め立てられ、娘を犯したことへの罪悪感から悩み抜いた孝霊天皇は、手が付けられないほどの妻の激しい怒りを鎮めるために、火種となっている倭姫を亡き者とするため刺客を放ちました。
夜になるのを見計らって姫の部屋を訪れた刺客は、火箸で姫のほと(陰部)を突いて殺めました。そうすることによって姫にとり憑いていると噂された悪魔を退治する意味もあったのです。女にとってはむごい死に方です。倭姫はそのようにして、ある意味愛する人の手にかかって亡くなりました。この事実によって、彼女の墓は「箸墓」と呼ばれるようになったのです。
「蝉の声が聞こえていた・・・私は暗闇の中で苦しみ、絶命しながら、二人の子どものことを考えていました・・・」
姫は血にまみれて亡くなるとき、巫女としての活動の中で、他の人たちの依頼とはいえ多くの人を呪詛で殺めたことが、自らに戻ってきたのだと、そう思ったそうです。
・・・・・・・・
倭姫の子どもたちは斎宮守のような一族でもある彼女の叔父の家で育てられていたようで、姫自身も子どもたちが7歳になるまで一緒にいられたようです。そして双子の一人が、のちに倭健命<ヤマトタケル>と呼ばれることになる人物です。
倭姫も身を寄せていたこの叔父さんの家は吉備国にあったそうです。ですから、二人の皇子は吉備国で生まれました。吉備国といえば桃太郎ですね。そうです、桃太郎の正体と言われている吉備津彦命こそが、倭建命のことなのです。倭建命が鬼退治(温羅伝説)をしたんですね ^^ 正史でも吉備津彦命は孝霊天皇の皇子となっていますが、子供であり、孫である存在ということですね。
倭姫といえば三輪山の神さま(白蛇=龍)との恋で有名ですが、この伝承はあながち嘘ではなく、白蛇が姫に取り憑いていたようです。三輪山に祀られているのはシリウスの存在ですので、倭姫はシリウスから降ろされたお姫様です。そして孝霊天皇と倭姫はやはり、魂レベルでは対の関係だったのです。
【追記】
倭姫の本名、下の名前は、「幸ふ子」と書いて、幸子(さきこ)だそうです。